こんにちは!あっきーです♫
今回は南直哉(みなみ じきさい)さんの「「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本」について解説していきます。
「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本(南 直哉著 / アスコム)
今回は、そんな悩みを解決できる方法を教えてくれる本をご紹介します!!
生きていると悩みは次から次へと出てきます。
この本では仏教というツールを使って、こだわりや執着から起こる苦しみの正体を知り、その取り扱い方を見つけることができます。
「苦しみ」をなくすことは難しいです。
しかし悩みや問題を解きほぐしていくことはできます。
仏教とは生きるための道具、テクニックです。
もしあなたが現状を変えたいと感じているのなら、仏教という道具を使ってください。
生きるためのテクニックを12個紹介します!!
Contents
悩みは人間関係の中でしか生まれない
最近悩んでいるようだけど大丈夫??
どうしたらいいのか分からないよ泣
人間が抱えるどんな深刻な問題も、そのほとんどは、親や子ども、配偶者やパートナー、職場の人間などの「自分をめぐる人間関係」についてです。
この問題を考える時に大事な前提として、「つらい」「憎い」「嫌いだ」の話と、「今起きている出来事」とは別物だと理解することです。
しかし多くの人はその2つを混合している為、堂々巡りを繰り返しています。
「今の状況」と「こうあって欲しい状況」が違うであれば、感情と状況を切り分けることが大事です。つまり冷静になって「考える」ことです。
例えば「上司が嫌いで会社に行くのがつらい」という悩みは、性格的あるいは人間的に「合わない」のか、それとも仕事上で「うまくいかない」のか、考える必要があります。
前者なら、仕事上において必要以外に接触する時間を極力減らして、相手をおだてるテクニックを身に付けると状況は改善します。後者なら相手を仕事に関わる「条件」として配慮しつつ、当面の課題に集中します。
その場合は、最終的な手柄を相手に譲る覚悟で臨むと、事態は好転しやすいです。
関係がパワハラのレベルにまで悪化しているのであれば、話は別です。
しかし問題が「好き嫌い」にとどまる内はそれなりの対処があります。
一番大事なのは「苦しい」「つらい」という感情を抜きにして、事態を正確に判断できるかどうかです。
そして人が直面する問題のほとんどが人との「間(ま)」に存在します。その証拠にこの世に自分ひとりだったら悩むことはないです。
問題を解決するには他人との関係を組み替えることが必要です。
「関係を組み替える」方法は「少し相手に譲ってみる」こと「新たに第三者を引き込んでみること」です。これらの方法を効果的に取り込んで、問題の解決に活かしてください。
人間が抱える問題はほとんどが「自分をめぐる人間関係」です。
この問題を考える時には「感情」と「今起きている出来事」とは別物だと理解する
ことが大事です。
「なりたい自分」になれなくたっていい
「本当の自分になる」という考え方があります。しかしこの生き方には無理があります。
「本当の自分」とは一見、ひとつの理想像のように思われますが、誰が、何を基準に、その自分が「本当」だとするのかよくわかりません。
「今の自分をすきになれないので、本当の自分を見つけたい」と言う人もいますが、自分というものに対して居心地の悪さを感じるのは当然です。
私たちは生まれたいように生まれたわけではなく、気づいたらそのように生まれついただけです。
要するに他人に仕立てられたお仕着せの「自分」なので、最初から寸法が合うはずもなく、無理をしながら「自分」をやっています。
「理想の自分になる」ことに違和感があれば、無理やりその生き方に合わせるのは新たな苦しみを生むだけです。
「意味のある人生」を送りたいと思う気持ちは分かりますが、そう考えて苦しくなっているのなら、「自己実現して生きる」という物語からは降りてもいいです。
力を抜いて「大したことのない自分」を生きれば良いです。
死ぬ間際になれば、大したことは残っていません。今ジタバタしている問題についても思い出しません。人生の最後に一生を振り返った時、「多少の満足」と「いくつかの後悔」が残るのが普通です。
私たちは生まれたいように生まれたわけではなく、気づいたらそのように生まれついただけです。無理をしながら「自分」をやっています。力を抜いて「大したことのない自分」を生きれば良いです誰かのために何する
誰かのために何かをする
人は、人生になんらかの意味を感じないと生きられません。
そして人間は「誰かから認められたい」という最大の欲求があります。
人から認められる為には、自分のやりたいことではなく、「自分のなすべきこと」をしてください。簡単に言うと、誰を大切にしたいのか、何を大切にしたいのか、この2つを考えて、それを実行することです。その1つの手本とする生き方は職人です。
「職人技」と認められるほどの腕があり、仕事で評価されている人たちは、「やるべきこと」が決まっている為、それを最優先に生きています。
職人は自分自身が評価されなくても、自分の仕事が評価されればいい為、人に対して見栄がほとんどありません。
「仕事が認められること」が「自分が認められること」なので結果的に自分自身に対する執着が消えます。
自分の「べき」をはっきり見られるようになれば、「~したい」に振り回されることはないです。自分のやるべきことを見極めて行えば、必ずそれを認めてくれる人が出てきます。
自分のためではなく、誰かのために何かをする
人間は「誰かから認められたい」という最大の欲求があります。
人から認められる為には、自分のやりたいことではなく、「自分のなすべきこと」をしてください。簡単に言うと、誰を大切にしたいのか、何を大切にしたいのか、この2つを考えて、それを実行することです。
自分のやるべきことを見極めて行えば、必ずそれを認めてくれる人が出てきます。
生きるか死ぬか以外は大したことではない
人生に問題が起きたとき、人の視野は非常に狭いです。
例えば、10センチ四方の紙の上に直径10センチの球を載せたとすると、それはあふれるように大きく見えます。しかし同じボールを1メートル四方の紙に置くと、その存在はまったく違って見えます。
問題を球に例えると同じです。視界が10センチしかないときに10センチの球を目の前に置かれたら、視界全体がふさがって困ります。しかし広々とした視野を持っていれば、どんなに球が大きくても驚きません。
そうか、、!!
生きているだけで、なんとかなる!!
気軽に考えてみよ!
生きるか死ぬか以外は大したことではありません。極端な言い方に聞こえますが、そこまで枠を広げてしまえば、今まで大きく見えていた問題が一気に小さくなります。そうするとスッと冷静になります。
冷静になってから、その問題の本当の大きさがどの程度なのか、誰かの助けが必要なのか、それが見えてきます。
人生に問題が起きたとき、人の視野は非常に狭くなっています。
しかし広々とした視野を持っていれば、どんなに問題が大きくても驚きません。
生きるか死ぬか以外は大したことではない、そう思うとスッと冷静になれます。
冷静になってから、その問題の本当の大きさがどの程度なのか、誰かの助けが必要なのかどうか、それが見えてきます。
「置かれた場所」で咲けなくていい
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があります。
しかし、その「置かれた場所」とは「たまたま置かれた」にすぎない場所です。
「置かれた場所」を絶対的なものと捉えて、たとえどんなに理不尽で厳しい立場に置かれようが我慢して自己実現に努力せよ、というのは、過酷な話です。
仏教では、人間関係も仕事も家庭もすべての物事は、ひとつの条件によって成立している「仮のもの」だと考えます。
今、自分がどんな場所に置かれ、どんな状況にあろうと、それは一時的な状況だと捉えるのが仏教の視点です。
例えば、職場の人間関係がうまくいかない場合は、そこを辞めれば、職場の人間とは一切の関係がとぎれます。
すべては「仮の宿」であり、一時的な場所です。
「置かれた場所」とは「たまたま置かれた」場所のことです。
仏教では、自分がどんな場所に置かれ、どんな状況にあろうと、それは一時的な状況だと捉える視点があります。
そこに行けば一生安心と言える場所はこの世にはあり得ません。
もし「自分の居場所が欲しい」のであれば、自分で探すか、ここと決めた場所が少しでも居心地が良くなるように工夫することです。
情報の99%はなくてもいい
これだけ情報が溢れた世の中で、しっかり情報を選ぶことが大事なんだよ!
自分の問題を見ていくときに、必要になるのが「教養」です。
教養とは問題を考えるときの「世界観」を持つために欠かせないものです。
自分とこの世は、どんな関係があるのか、世界観がなければそれを見極めるこ とが出来ません。その為には情報を選別して教養を養うしかありません。
この時に誤解してはいけないのが、「情報」と「知識」と「知恵」と「教養」は全く別 物ということです。
ここで整理します。まず世の中にある情報の99%はなくてもいいもので、自分に とって必要な情報は、1%程度です。
その抽出された1%が「知識」です。
抽出した知識を自分の問題に組み込んで使 えたときに、それは「知恵」となります。 ここで「知恵がつけば教養が生まれて、教養を身につけたら世界観が生まれる」 と早合点してしまうかもしれません。
しかし、世界観が持てないと、あふれている 情報から自分にとって必要な1%を抽出することはできません。
つまり「情報→知識→知恵→教養→世界観」はループのように輪になってつながっています。
では、どうすれば世界観や教養を持てるのか、職人を例に考えます。
日々自分の仕事に従事している彼らの多くは自分なりの世界観があります。
なぜなら彼らは「考える人」だからです。
熟達した仕事を目指す中で、失敗をくり返しながら、試行錯誤を続けつつ真剣に考えたからこそ、情報が抽出されて知識となります。
そして具体的な実践の中で、知恵となって教養や世界観が育まれるのです。
私たちが世界観や教養をもつ為には、まず自分の問題から逃げずにしっかり困ったり悩んだりすることです。悩みや苦しみをなんとかしたいと切実に思ったとき、人は情報の選別を始めます。
すぐに事態が変わるわけではないですが、「問題を解決したい」と実践を繰り返すうちに、少しずつ情報から世界観へループが 回り始めます。
そのスピードはゆっくりかもしれませんが、回転は確実に、世界観を育んでいきます。
人生はネガティブで当たり前
人生で悩んでいる人たちは、「ネガティブ」「うまくいかない」という言葉を自分に張り付けて安心し、考えることをやめてしまっているように見えます。
しかし生きることへの違和感があるならば、その中身をきちんと考えなければ先へは進めません。自分が置かれている状況を冷静に見て、何に困っていて、何が欲しいのか、具体的に考えていく根気が必要です。
今、人生の問題を解決するとうたう本や情報があふれています。
しかし人生は複雑なものです。何十年もかけて自分の中で育ってきた問題は、出来合いのノウハウを当てはめる方法だけで、一発で解決することはあり得ません。
焦らなくても大丈夫!
どうにかしたい状況があるのなら、自分が「これは!」と思ったことを実際に試して、少しずつ正していくしかありません。手間をかけたからといって、問題が解決するとは限りません。
しかし続けていくうちに道筋は見えてきます。
生きることへの違和感がある場合、巷に出ている出来合いのノウハウで一発で解決することはできません。自分が置かれている状況を冷静に見て、何に困っていて、何が欲しいのか、具体的に考えていく根気が必要です。
すぐ「答え」を出そうとしない
困難やつらい状況の中で、漠然と「困ったな」と言っているだけでは何も解決しません。
状況を打開する為には、困った状況の根本には何があるのかを見て、「なんなのだろう?」と自分を困惑させる「問い」を、アプローチ可能な「問題」に組み立てることができるかどうかがポイントです。
頭の中で考えるだけでは、感情がグルグル回転しているだけで「問題」に仕上がりません。一度、そのサイクルを止めて、「問題」として言語化する必要があります。言葉にする、ということは感情を止めるということになります。
言語化するには、まず「主語」と「述語」をはっきりさせます。
それによって自分の置かれた状況や感情、問題点を書き出すか、人に話します。すると問題の枠組みができていきます。
言語化して初めて、その問題が自分の手に負えることなのか、他人の介入が必要なのか、あるいはやり過ごせばいいのか、立ち向かうべきなのか、というアプローチの方法が、見えてきます。
「結論」や「答え」を焦って得ようとせずに、自分の問題を自分の言葉で明らかにして、人前に持ち出せるようになることを目指して下さい。
あっきーさんにも相談してみよ♫
あっきーさん、、、、!!!
「この世」より「あの世」を心配するのは筋違い
みんな「死後の世界」への関心は大きいです。
冗談キツいよ泣
「あの世」がどんなところか。死んだら自分がどこへ行くのか。地獄か極楽か興味がある人も多いです。
しかし、いくら死後を思いわずらっても「死」については誰にもわかりません。なのであの世の心配は、暇つぶし程度に、気楽に考えていい話です。
結局、私たちがこの世で出来ることは、決してわからない死をなんとか受け容れる生き方を学ぶことだけです。
それが生きるということの、すべてです。
まとめ
1.悩みは人間関係の中でしか生まれない
2.「なりたい自分」になれなくたっていい
3.誰かのために何かをする
4.生きるか死ぬか以外は大したことではない
5.「置かれた場所」で咲けなくていい
6.情報の99%はなくてもいい
7.人生はネガティブで当たり前
8.すぐに「答え」を出そうとしない
9.「この世」より「あの世」を心配するのは筋違い
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